神武天皇とは?

神武天皇とは

神武天皇とは、古事記と日本書紀である「記紀」にも書かれている、日本の初代天皇です。読み方は「じんむてんのう」です。紀元前711年2月13日生まれで、紀元前585年4月9日に127歳で亡くなりました。実在する人物とも言われていますし、伝説上の人物だとも言われていますが、はっきりとはしません。ちなみに、神武天皇の血筋を引く昭和天皇は、125代天皇になります。

神武天皇の家系図と血筋

神武天皇の曽祖父(ひいおじいさん)は、天上界から人間界に降りてきた「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」です。また、「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」のおばあさんが、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」です。そのため、神武天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫になります。

神武天皇の血筋を一番はじめまでさかのぼっていくと、伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)になります。日本神話の「天地開闢(てんちかいびゃく)」からの流れで言うと、次のようになります。なお、神様は「一人、二人」と数えず、「一柱、二柱」と数えます。

  1. 性別のない三柱の神が生まれる:三柱の神は「造化の三神」と呼ばれる。
  2. 性別のない二柱の神が生まれる:ここまでの五柱の神は「別天津神(ことあまつかみ)」と呼ばれる。
  3. 性別のない二柱の神が生まれる。その後、男女の性別のある五組十柱の神が生まれる:この七組十二柱の神は「神世七代(かみよななよ)」と呼ばれる。

そして、「神世七代」の中の神が「神武天皇」の祖先となる「伊邪那岐(いざなぎ)」と「伊邪那美(いざなみ」になります。神武天皇の血筋を、伊邪那岐・伊邪那美からたどっていくと、次のように次のようになります。

  1. 伊邪那岐(いざなぎ、男性)・伊邪那美(いざなみ、女性):天地が誕生したときに生まれた神様。神武天皇の7代先祖。
  2. 天照大神(あまてらすおおみかみ):伊邪那岐・伊邪那美の娘。
  3. 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと):天照大神の息子。
  4. 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと):天忍穂耳尊の息子。神武天皇の曽祖父。
  5. 火折尊(ほおりのみこと):瓊瓊杵尊の息子。山幸彦としても有名。兄は海幸彦。神武天皇の祖父。
  6. 鸕鷀草葺不合尊(うがきふきあえずのみこと):火折尊の息子。神武天皇の父親。
  • 玉依姫(たまよりひめ):海神の娘。神武天皇の母親。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、神の住む天上界「高天原(たかまがはら)」から、人の住む人間界「葦原中国(あしはらのなかつくに)」に降りてきた「天孫降臨」の神様です。また、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨するときに、天照大神(あまてらすおおみかみ)にもらったのが、今も天皇家に伝わる三種の神器になります。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が「天孫降臨」で降りてきたのは、南九州の日向(ひむか)で、今でいう宮崎県の日向(ひゅうが)であると言われています。そのため、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・火折尊(ほおりのみこと)・鸕鷀草葺不合尊(うがきふきあえずのみこと)の三柱(三人)の神様は、「日向三代(ひむかさんだい・ひゅうがさんだい)」と呼ばれます。神武天皇も、宮崎県の日向で生まれなので、宮崎県には、神武天皇にちなんだ名所がたくさんあります。

神武天皇の生い立ちの簡単な説明

神武天皇の生い立ちを簡単に説明すると、次にのようになります。

1.太子になる:15歳のとき、太子になる。その後、吾平津媛(あひらつひめ)と結婚し、第一子の手研耳命(たぎしみみのみこと)が生まれる。

2.東征へ向かう:45歳のとき、大和国(奈良)にいい土地があると聞き、兄弟らと東へ向かう「神武東征」へ。

3.海路で瀬戸内海を通り熊野(和歌山)へ:海路で宇佐(大分県)に着いた後は、岡田宮(おかだぐう、福岡)で1年、多祁理宮(たけりのみや、広島)で7年、高島宮(たかしまのみや、岡山)で8年を過ごしながら、東へ進む。浪速国(大阪)で戦いとなり、兄である五瀬命(いつせ)が戦死。引き続き海路を進み、熊野(和歌山)で上陸。

4.陸路で吉野(奈良)を抜け大和(奈良)へ:3本の足を持つ八咫烏(やたがらす)の導きで、熊野(和歌山)から吉野(奈良)を通り、大和(奈良)へ入った。途中、神や、大和の土蜘蛛(豪族)と戦いながら、服従させ、白檮原宮(うねびのかしはらのみや)に皇居を作る。白檮原宮は、今でいう橿原神宮の場所。

5.初代天皇として即位:紀元前660年の旧暦1月1日、初代天皇として即位。現在の暦で2月11日なので、この日が建国記念日に。年号は「神武天皇元年」。その後、初代皇后である、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)と結婚。第二子の神八井耳命(かんやいみみのみこと)と、第三子の神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのすめらみこと)が生まれる

6.崩御:即位76年の旧暦3月11日、127歳にて崩御。

なお、神武天皇がはじめに結婚した吾平津媛(あひらつひめ)は、神武天皇が太子の頃に結婚したため、初代皇后とは呼ばれませねん。初代皇后は、神武天皇が天皇として即した後に結婚した「媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)」になります。

ちなみに、2代目の天皇には、第三子である神渟名川耳尊(かんぬなかわのすめらみこと)が、「綏靖天皇(すいぜいてんのう)」として即位しています。神武天皇が亡くなった後、朝廷の政治が得意だった第一子の手研耳命(たぎしみみのみこ)が、弟2人を殺して天皇になろうとしてタギシミミの反逆を起こしました。しかし、第二子の神八井耳命(かんやいみみのみこと)と、第三子の神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのすめらみこと)は、事前に察知して、第一子の手研耳命を、返り討ちにしました。しかし返り討ちにするとき、第二子の神八井耳命は手足が震えて矢を撃てなかったため、代わりに、第三子の神渟名川耳尊が矢を射て、第一子の手研耳命を殺しました。第二子の神八井耳命は、矢を撃てなかったことを恥じて、第三子の神渟名川耳尊に皇位を譲り、第三子の神渟名川耳尊が天皇になりました。

しかし、綏靖天皇(すいぜいてんのう)の実績は、日本書紀・古事記にも書かれていないため、どのような即位後のことについては、ほとんど分かっていません。第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことは、日本書紀にも古事記にも実績が書かれていないため、「欠史八代(けっしはちだい)」とも呼ばれています。

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