ナガスネヒコ(長髄彦)とは?
ナガスネヒコ(長髄彦)とは、次のように書かれたりもします。
ナガスネヒコ 長髄彦 長脛彦 登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ) |
ナガスネヒコ(長髄彦)の「長髄」というのは、邑(村)の名前だったとも言われています。また「長髄彦」の「髄」は、足の脛(すね)ではなく、「鐘即ち銅鐸」のことだとも言われてます。
ナガスネヒコは、現在の奈良県である、大和国鳥見(とみ、登美)の豪族であるとされるため、「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)」とも呼ばれています。なお、大和国には鳥見(登美)という地名が2ヶ所あります。
奈良県奈良市石木町(昔の添下郡):「登弥神社(とみじんじゃ)」がある 奈良県桜井市(昔の城上郡):「等弥神社(とみじんじゃ)」」がある |
そのうち、桜井市の方が、ナガスネヒコの本拠地であると言われています。ただし、奈良市石木町の方も、ナガスネヒコと縁がないわけではなく、ナガスネヒコの支配地であったと考えられています。
ナガスネヒコ(長髄彦)は、大和の支配者だった「ニギハヤヒ(饒速日命、ニギハヤヒノミコト)」の部下として、仕えていました。ナガスネヒコが、ニギハヤヒに仕えることになったのは、次のような流れでです。
1.ニギハヤヒは天神の子で、天照大神から十種の神宝(十種神宝、とくさのかんだから)を受け取り、天の磐船にのって、天から大阪に降り立った 2.妹の「トミヤヒメ(登美夜毘売)、別名:ミカシヤヒメ(御炊屋姫)」が、ニギハヤヒと結婚した 3.妹が結婚したので、ナガスネヒコは、ニギハヤヒの部下になった |
ナガスネヒコ(長髄彦)は、次の2つの出来事で有名な、大和の指導者です。
1.神武天皇と戦い、神武天皇の兄を殺した 2.その後、再度、神武天皇と戦った |
ナガスネヒコ(長髄彦)は、神武天皇と2回、戦いました。そのため、神武伝説の中では、最大の仇役として描かれており、後世にその名を残しています。神武天皇と1回めに戦ったのは、大阪についた神武天皇たちが、大阪湾から陸路で大和へ攻め込もうとしたときです。
1.大阪の孔舎衛坂(くさえのさか)で、神武天皇たちと戦闘になる 2.ナガスネヒコの放った矢が、天皇の長兄の「五瀬命(いつせのみこと)」に当たる 3.神武天皇や五瀬命は逃げて、和歌山の方から大和へ攻めることにする 4.大阪から和歌山に入るあたりの海路で、五瀬命は、矢の傷が原因で死ぬ |
1回目の神武天皇と戦ったとき、ナガスネヒコは、神武天皇の兄を殺したため、神武天皇の東征には、「復讐」という意味も加わるようになります。
神武天皇と2回めに戦ったのは、和歌山から陸路で大和に攻め込まれたときで、生駒山の麓の石切の日下で、神武天皇率いる皇軍と戦いになります。
1.神武天皇との戦いが長引く 2.空が突然暗くなり、雹が降り、金色の鳶(とび)が現れる 3.神武天皇の弓の先に、金色の鳶が止まる 4.ナガスネヒコの軍は、目がくらみ、戦えなくなる 5.ナガスネヒコは、神武天皇に使者を送り、「自分の主は天神の子だが、どうして神武天皇は、天神の子と名乗って、土地を奪おうとするのか?」と質問 6.神武天皇は「天神の子はたくさんいる。ニギハヤヒが天神の子なら、証拠を示せ」と答える 7.ナガスネヒコは、ニギハヤヒの「天の羽羽矢(あめのはばや)」と「歩靭(かちゆき)」を神武天皇に見せ、ニギハヤヒが天神の子であることを証明する 8.神武天皇も、「天羽羽矢」と「歩靫」を見せ、ナガスネヒコに見せて、天神の子であることを証明した。 9,ナガスネヒコは、神武天皇が天神の子であることを知って、恐れたが、戦いは中止せず、改心もしなかった 10.ニギハヤヒは、神武天皇を天孫と認めて、国を譲ろうとした 11.ニギハヤヒは、ナガスネヒコに降伏するよう勧めたが、従わなかった。 12.さらにナガスネヒコは、性格がねじけていて、教えても分かりそうになかった。 12.そのため、主君のニギハヤヒは、ナガスネヒコを殺害した 13.ニギハヤヒは、あっさりと神武天皇に降伏した(ニギハヤヒの国譲り) 14.神武天皇も、ニギハヤヒの忠誠をほめ、ニギハヤヒが天孫であることを知っていたため、寵愛した。 |
なお、ニギハヤヒの「天羽羽矢」と「歩靫」は、ニギハヤヒが天照大神からもらった十種神宝とは、関係ありません。
神武天皇の東征の最終決戦である、ナガスネヒコ(長髄彦)との戦いにちなんだ遺跡としては、次のようなものがあります。
長髄彦本拠:奈良県生駒市上町。神武天皇と戦った場所。「長髄彦本拠の碑」がある。 金鵄発祥之地(きんしはっちょうの地):奈良県生駒市。金の鵄(とび)は「金鵄(きんし)」とも呼ばれており、金鵄の現れた場所。 |
ナガスネヒコ(長髄彦)の正体と東北
「日本書紀」には、ナガスネヒコ(長髄彦)は殺害された記述がありますが、実は、生き延びていた、という別の正体を描いているものもあります。
「東日流外三郡誌」によれば、ナガスネヒコ(長髄彦)は「ニギハヤヒ」に殺害されたのではなく、神武天皇との戦いに負けた後、東北に行きました。そして、東北でのナガスネヒコの活躍と、長髄彦の正体が記されています。
1.ナガスネヒコは、天皇に負け、祖国を去ることにした 2.ナガスネヒコには、義兄弟の契りを結んでいた兄の「アビヒコ(安日彦)」という人物がいた。 3.アビヒコの故郷である「東北」の津軽に、アビヒコと共に移り住んだ 4.津軽の「阿蘇辺族」と「津保化族」を併合して、「荒吐族(あらはばきぞく)」となり、津軽を支配した。 5.ナガスネヒコを含む4人の王が、「日乃本国」を作った 6.神武東征の50年~100年後に奈良を取り戻す 7.第8代の孝元天皇・第9代の開化天皇となった 8.「荒吐族」は、安倍比羅夫から姓をもらい「阿部一族」になった。 |
そのため、東北には「ヒノモト」や「日高見」という大和由来の地名が残っているとも言われています。そのため、ナガスネヒコ(長髄彦)の正体は、第8代天皇の孝元天皇であるとの逸話もあります。
ナガスネヒコ(長髄彦)と神社、その1、奈良編
ナガスネヒコ(長髄彦)は、日本書紀では天皇に抵抗した敵として記されているため、明治時代以降は逆賊としても扱われています。そのため、ナガスネヒコを直接、祀る神社は少なく、祀られていたとしても、別名として祀られています。
ナガスネヒコ(長髄彦)に縁のある神社には、奈良県と東北の2ヶ所があります。
奈良県のナガスネヒコ(長髄彦)に縁のある神社としては、「出雲と大和-古代国家の原像をたずねて」という2013年刊行の村井康彦さんの本の中で、次の3つが挙げられています。
1.伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ):上鳥見 2.添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ):中鳥見。2つあり、どちらが中鳥見かは不明。 3.登弥神社(とみじんじゃ):下鳥見。2つあり、どちらが下鳥見かは不明。 |
1つめのナガスネヒコ(長髄彦)に関連する神社である「伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ)」とは、次のような神社です。
伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ、長弓寺):奈良県生駒市上町。昔の名前は「登弥神社」。ナガスネヒコを祀っているわけではない。「長弓寺」は、ナガスネヒコ(長髄彦)の旧跡とされており、周辺にはナガスネヒコ・ニギハヤヒ・トミヤヒメの史跡が、色々ある。ニギハヤヒの廟所には、神器が埋められたと言われていうる「真弓塚」がある。「真弓塚」には、埋められた神器である「天羽羽弓」「天羽羽矢」「神衣(かむみそ、かんみそ)・帯・手貫(てまき)」のうちの1つである「天羽羽弓」が埋められている。 |
「伊弉諾神社」は、奈良県の生駒山の北にある「饒速日山(ニギヤマ、ニギハヤヒヤマ、日下山、草香山)」は、太陽信仰の御神体の社殿として、作られました。なお、「饒速日山」の社殿として建てられた「上社」「下社」は、次のようになっています。
御神体:饒速日山(ニギヤマ) 上ノ社:饒速日山(ニギヤマ)の頂上 東側の下ノ社:伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ)。奈良県生駒市上町。昔の名前は「登弥神社」。 西側の下ノ社:石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)。東大阪市東石切町。 |
その後、物部氏が滅ぼされ、頂上の神霊は、下ノ社の「伊弉諾神社」と「石切劔箭神社」に移されました。
2つめのナガスネヒコ(長髄彦)に関連する神社である「添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」の「縣(あがた)」とは天皇の直轄地のことで、「懸」に「御」の字を付けたものが「御縣(みあがた)」です。「添御県坐神社」は、同じ名前の神社が2つあります。
歌姫町の「添御県坐神社」:奈良市歌姫町。御祭神の一人である「武乳速之命(たけちばや、タケチハヤノミコト)」は、ナガスネヒコの別名と言われている。 三碓(ミツカラス)の「添御県坐神社」:奈良市奈良市三碓(ミツカラス)。御祭神の一人として、歌姫町と同じく、ナガスネヒコの別名と言われている「武乳速之命(たけちばや、タケチハヤノミコト)」を祀っている。 |
「添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」は2つありますが、歌姫町も三碓も歴史が古く、どちらが先にあったかは、現在では不明です。「添御縣坐神社」の御祭神には、本来、ナガスネヒコ(長髄彦命)の名があったとも言われています。しかし、明治時代に、神武天皇と戦った不敬不遜の人物として、御祭神から名前が消されたとも言われています。
3つめのナガスネヒコ(長髄彦)に関連する神社である「登弥神社(とみじんじゃ)」は、同じ読みの神社が2つあります。
奈良市の「登弥神社(登彌神社)」:奈良県奈良市石木町。祭神の一人である「登美建速日命(トミニギハヤヒノミコト)」が、ナガスネヒコであるという逸話もある。 桜井市の「等弥神社(等彌神社)」:奈良県桜井市。ナガスネヒコの本拠地である「鳥見(とみ)」は、「等弥神社」である桜井市である説が有力。ただし、ナガスネヒコを祀っているわけではなく、祭神に「登美建速日命(トミニギハヤヒノミコト)」もいない。 |
「登弥神社」と「等弥神社」の由来は、どちらも、本来はニギハヤヒを祀るための神社で、由緒もほぼ同じです。なお、「等弥神社」のある桜井市が、ナガスネヒコの本拠地であるとされていますが、「登弥神社」のある奈良市も、ナガスネヒコの支配地であったとされているため、どちらもナガスネヒコに縁のある地であると言えます。
なお、927年(延長5年)に「延喜式神名帳」に記された、3132座、2861所の神社である「式内社(式内神社、式内大社)」のうち、同名の神社で特定できないものを「論社」と言います。ナガスネヒコ(長髄彦)と関係のある上記の神社のうち、次の2組が「論社」になります。
「登弥神社」の論社:生駒市の「伊弉諾神社(旧名は登弥神社)」と、奈良市の「登弥神社」 「添御県坐神社の論社:歌姫町の「添御県坐神社」と、三碓(ミツカラス)の「添御県坐神社」 |
ナガスネヒコ(長髄彦)と神社、その2、東北編
東北で、ナガスネヒコを祀っている神社としては、次のものが有名です。
鹽竈神社(しおがま神社):東北の宮城県塩竈市にある、陸奥国一之宮。塩釜神社。 |
鹽竈神社の「鹽竈大神」は、実はナガスネヒコ(長髄彦)であることが、「先代旧事本紀大成経」の中に、記されています。
ナガスネヒコの墓
ナガスネヒコの墓とされているものには、奈良県と東北の2ヶ所があります。
鍋塚古墳:奈良県葛城市。直径46mの円墳。 オセドウ貝塚:青森県五所川原市。オセドウ(お伊勢堂)と呼ばれ、大正時代に見つかった縄文時代前期の貝塚。ナガスネヒコとアビヒコを再奏した墓地だとも言われている。長髄神社(ながすね神社)あるいは荒吐神社(あらはばき神社)とも呼ばれている。 |
ナガスネヒコ(長髄彦)の物語
神武天皇の活躍も描かれている「古事記」や「日本書紀」の原典には、「ホツマツタヱ」という本があると言われています。
実際には「ホツマツタヱ」は偽書であると考えられており、「ホツマツタヱ」の起源は、江戸時代中期ごろまでしか遡れません。
しかし「ホツマツタヱ」には、神武天皇の東征のきっかけとして、ナガスネヒコ(長髄彦)のことが「日本書紀」よりも多く書かれているため、一度、目を通しておいても、おもしろいかもしれません。
「ホツマツタヱ」のナガスネヒコの描写は、次のようになっています。
1.ニギハヤヒは、子供ができなかった 2.ナガスネヒコは、子供ができないニギハヤヒを心配する 3.ナガスネヒコは、子供ができない障りを取り除く、代嗣文(ヨツギフミ)を請う 4.ナガスネヒコは、拒否されてしまう 5.ナガスネヒコは、御笠社(ミカサヤシロ)の春日(カスガ、春日大社)から、こっそり写し取る 6.ニギハヤヒに、無事に子供が生まれる 7.ナガスネヒコへの抗議として、ハラの御子(富士山のあたりの御子)は、関東や東北の食糧の輸送を止める 8.ナガスネヒコは対抗策として、淀川の京都と大阪の間にある「山崎の関」という、船の要所を閉鎖する 9.都は物資の流入が絶たれ、孤立する 10.タケヒト(神武天皇)が、神武東征を決意する |
なお、ナガスネヒコが、最後にニギハヤヒに斬られる結末は、変わりません。